■新春紙上展 氷瀑回顧
菊田実さん(名張市朝日町)の新春紙上写真展。今年は、四十年ほど前の赤目四十八滝を回顧していただいた。
滝が凍りつく「氷瀑」の造形美にひかれ、仕事が休みの日には早朝から冬の赤目滝に通いつめて、菊田さんが千変万化する氷の表情を切り取ったのは、昭和四十年代後半からのこと。氷瀑の美は、まだ一般には知られておらず、撮影は静寂のなかの孤独な作業だった。
「マイナス五度以下の日が一週間つづくことが、氷瀑の条件でした」というが、このところ暖かい冬がつづき、強烈な寒波が氷瀑を出現させることはめったになくなった。 「地球温暖化のせいでしょうか。大自然が演出する雪と氷のアートが見られなくなったのは、やはりさびしいことです」という菊田さんの作品で、厳寒の赤目滝を紙上に再現する。
赤目四十八滝で氷瀑が見られた昭和四十年代。名張市ではどんな動きがあったのか。
昭和四十年(一九六五)には、桔梗が丘住宅地の入居が始まった。前年、近鉄伊賀線の伊賀神戸・西名張間が廃止され、大阪線に桔梗が丘駅が開設された。
四十一年には、南町に名張産業会館が完成。四十二年、県道上野名張線の全面舗装が完了。四十三年、桔梗が丘中学校開校。四十四年には、南町に名張警察署新庁舎、中央公園に市民プール、丸之内に市立図書館が誕生し、蔵持工業団地の造成が完了した。
昭和四十五年(一九七〇)には青蓮寺ダムが完成し、室生・赤目・青山国定公園が指定された。 四十六年、伊賀南部消防組合が発足。四十七年、桔梗が丘小学校が開校し、蔵持小学校旧校舎が明治村に移築された。四十八年には、名張桔梗丘高等学校が誕生し、国道一六五号が全線開通。市制二十周年を迎えた四十九年には、五期二十年にわたって市政を担当した北田藤太郎市長が退任し、二代目市長に永岡茂之氏が就任した。
大規模住宅地の開発で関西圏の人口をうけいれ、発足当初は三万人だった人口が八万人を超えるまでになった名張市の歩みが、このころスタートしたといえる。
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【高さ十メートルの大氷柱(縋藤滝)】
【白布の流水も凍る(布曳滝)】
【岩壁覆う氷雪(大日滝)】
【雪と氷に閉ざされる(荷担滝)】
【雪と氷が生み出した怪奇な造形(雨降り滝)】 |