■■ 1月5日(土) ■■

 

■年賀はがきで大当たり フジモリでセール開幕
年賀状はメガネの割引券──。名張市内と榛原町に3店舗を展開するメガネセンター「フジモリ」で新春恒例の人気セールが始まった。
お年玉つき年賀はがきの抽選番号が各店の電話番号に合致していれば、そのケタ数に応じてレンズの価格が安くなる。フジモリのどの店舗でも有効で、26年目の今年も去年同様、従来より割引率をアップし、下一ケタが合っているだけでも値引きするサービスを継続する。
安価なセット商品には期待できない見やすさを誇る高品質レンズも、ケタ数によって安く購入でき、全ケタが合致していれば無料で手に入ることになる。
番号は各組共通で、下六ケタすべてが合っていれば希望のレンズを無料でプレゼント(メガネ一式の購入に限る)。下5ケタで80%、下4ケタで70%、下3ケタで65%、下2ケタで60%、下1ケタで55%がオフとなる。
今年の官製年賀はがきであれば、宛名や差出人は関係なく有効。家族、近所、知人など、だれに宛てたはがきでもかまわない。書き損じたものでもOKだ。当たりはがきがなくてもセール期間中の割引き価格となる
当選の番号は、641970(名張駅前店)、658530(桔梗が丘店)、852110(サンクシティ榛原店)と、新年の西暦と1月にちなんだ201301、創業した年の西暦と創業以来の営業年数の193578も当選番号となっている。【PR】

■赤目のどんぐり18日から絵画展
名張市赤目公民館で活動する絵画教室どんぐりは18日から20日まで元町、イオン名張店3階リバーナホールで第28回絵画展を催す。午前10時から午後5時(最終日は4時)まで。
出展者は次のみなさん。
工藤俊治(講師)、岩田登志子、小林政利、吉田仁一、山本登、山本冨貴子、山本栄治、勝村恭子、堀井輝雄、福井功、浅川眞里衣、池井初女、久継玉子、斎藤至康、中森クニ子、宇野幸江

■エネルギー問題で産学官のセミナー
第11回三重大学発産学官連携セミナーin伊賀は2月8日、伊賀市西明寺のヒルホテルサンピア伊賀白鳳の間で催される。三重大学と伊賀市が主催し、名張市などが後援。
エネルギー問題をテーマに三重大学の研究と実践を紹介する。講演は、三重大学大学院地域イノベーション学研究科教授・坂内正明さん、同工学研究科教授・今西誠之さん、報告は、県健康福祉部薬務感染症対策課副参事兼副課長・高村康さん、三重大学社会連携研究センター伊賀研究拠点教授・山本好男さん、上野高校SPP成果発表。
午後1時30分から。同5時15分から交流会。参加費は、セミナーは無料、交流会は3千円。
申し込みは、所定の申し込み書に記入し、ファクスで同研究拠点(〒518‐0131、伊賀市ゆめが丘一丁目三番地の三、電話0595・41・1071、ファクス0595・41・1062、電子メールiga-kyoten@crc.mie-u.ac.jp)へ。電子メールでも申し込める。締切は1月31日。

■男女共同参画で講演と表彰など
名張市と名張男女共同参画推進ネットワーク会議は27日午後1時30分から市武道交流館いきいき多目的ホールで「市男女共同参画推進フォーラム2012」を催す。
阪神大震災を体験して被災女性の支援を進め、東日本大震災でも女性支援ネットワークの世話人として活動している正井礼子さん(NPO女性と子ども支援センターウィメンズネット・こうべ代表理事)が「私が震災で見てきたもの〜災害時の課題と解決法をさぐる〜地域のつながりと防災力」と題して講演する。
ほかに男女共同参画川柳優秀作品の発表と表彰、名張男女共同参画推進ネットワーク会議登録団体などを紹介するパネル展なども。
定員200人。参加無料。申し込み不要。託児(無料)は11日締切で先着10人を受け付ける。
託児の申し込み、問い合わせは生活環境部人権・男女共同参画推進室(電話0595・63・7559)へ。


●新春舞踊花舞台 20日午後1時から名張市のアドバンスコープADSホールで。入場無料。問い合わせは藤間緋桜さん(電話0595・63・5035)へ。
●教育フォーラムin Nabari 19日午後1時から名張市のアドバンスコープADSホールで。朝日放送アナウンサー、三代澤康司さんが夢を語ろう子どもたちと〜家庭の豊かな会話〜」と題して講演する。名張中学校オーケストラ部の発表、「名張市子ども教育ビジョン」進捗状況の報告も。参加無料。申し込み不要。問い合わせは教育総務室(電話0595・63・7849)へ。
●自然農法セミナー 19日午後1時30分から名張市武道交流館いきいきで。テーマは「自家採取」。講師は板坂康行さん(MOA自然農法文化事業団普及員)。参加費三百円。申し込み不要。問い合わせは、食と健康を考える会(電話0595・64・6332=中嶋さん)? へ。
●歴史講演会 26日午後1時30分から名張市武道交流館いきいき多目的ホールで。家康を語る会を主宰する川崎記孝さんが「近世三百年を開いた関ヶ原の戦い」と題して話す。同会が主催し、市教育委員会が後援。入場無料。問い合わせは同会(電話0595・45・3232)へ。


第2回海外販路開拓支援セミナー「知ろう学ぼう 海外ビジネス!」
▽日時=平成25年1月17日(木)午後1時30分〜3時45分(受付午後1時〜)
▽場所=名張産業振興センター「アスピア」4階会議室
▽内容=@「海外ビジネスに関する基本的事項について」講師=日本貿易振興機構(ジェトロ)三重・新井剛史氏A「アセアンでの事業機会」講師=三重県アセアンビジネスサポートデスク・原正一郎氏
▽対象=海外販路開拓に関心のある事業者および個人
▽費用=無料
▽定員=40名(先着順)
※セミナー終了後、個別相談可。
○参加希望の方は事前に名張商工会議所もしくは市役所産業部商工経済室にご連絡ください。
▽お問い合わせ先=名張商工会議所(電話0595・63・0080)、市役所産業部商工経済室(電話0595・63・7824)
テナント募集のお知らせ
名張産業振興センターでは事務所としてご利用いただけるテナント入居者を募集しています。
名張産業振興センター 4階部分 15平方メートル
テナントの詳細およびお問い合わせは名張商工会議所総務管理課(電話0595・63・0080)へ。
第197回珠算能力検定試験要項
▽主催=名張商工会議所、日本商工会議所
▽試験日=平成25年2月10日(日)
▽試験会場=名張産業振興センター「アスピア」4階会議室F(都合により、変更する場合がありますので、ご了承ください)
▽試験開始時間=珠算4級〜10級…午前9時、珠算1級〜3級…午前9時、段位…午前9時、暗算1級〜6級…午前9時45分
▽受験資格=学歴、年齢、性別、国籍に制限はありません。
▽申込受付期間=平成25年1月10日(木)まで
▽申込場所=名張商工会議所管理課(南町町822‐2、電話64・5353)
▽申込要領=〈申込書類〉@申込書(一級のみ写真1枚、縦4.5×横3.5センチ)A受験料(申込後の受験料は試験施行中止などのほかは返却しません)〈申込方法〉@直接申込の場合…申込期間中に上記のものを添えてお申し込みくださいA郵送による場合(申込期間中に必着のこと)…現金書留に申込書、受験料を同封してください。一人で二つの級を受験される場合は、それぞれ別個に申込書を提出してください。申込受付後の変更、取り消しはお断りします。
▽受験料=1級…2,040円、2級…1,530円、3級…1,330円、4〜6級…920円、7〜10級…820円、暗算1〜6級…820円、段位…2,550円(珠算のみ2,200円、暗算のみ1,100円)※上記受験料には消費税も含みます。
名張商工会議所女性会エアロビクスのご案内
▽日時=毎週土曜日(第5土曜除く)午後7時30分〜8時30分
▽場所=名張産業振興センターアスピア(1月12日は都合によりスポーツマツヤマ2階で開催します)
▽講師=松山比香里先生、芝田記代先生
▽参加費=500円/1回・1人
▽服装=自由(動きやすい服装、靴でお越しください)
▽持ち物=タオル、飲み物等
※どなたでもご参加できます。お子様とご一緒のご参加も歓迎いたします。
【名張商工会議所/電話0595・63・0080】

 ■■ 1月3日(木) ■■

 

■君は二十面相ヲ知ッテイルカ
名張ロータリークラブ小・中学生対象に江戸川乱歩記念ミステリー感想文コンクール
3月9日発行の伊和ジャーナルで審査結果を発表授賞は4月7日
名張出身の探偵作家、江戸川乱歩にちなんだ感想文コンクールが行われる。「怪人二十面相」「少年探偵団」などの乱歩作品をはじめとしたミステリー小説を読むことで、子供たちに地域や読書への興味を深めてもらうのが目的という。
名張ロータリークラブ(川地清広会長)は創立50周年の記念事業として第一回江戸川乱歩記念小・中学生ミステリー感想文コンクールを催す。明治27年(1894)に名張町(当時)の新町に生まれ、日本にミステリー小説の基礎を築いた江戸川乱歩を記念して実施する。
対象は、名張市と伊賀市青山地区の小学4年生から6年生と中学生。最近読んだミステリー小説や、名張ロータリークラブから学校に寄贈された江戸川乱歩作品などの感想文を募集する。
感想文は、四百字詰め原稿用紙五枚以内にまとめる。原稿のサイズはB4判かA4判。感想文の冒頭に@題名A学校名と学年B氏名とふりがなC連絡先(自宅または学校の住所と電話番号)をこの順番に記入する。
原稿用紙が二枚以上ある場合は重ねて二つ折りにし(封筒の大きさによっては三つ折り、四つ折りも可)、右上をクリップで留める(ホチキスで留めるのは不可)。
賞は、最優秀賞(図書カード3万円分)1点、優秀賞(同1万円分)5点、佳作(同5千円分)数点を選ぶ。参加賞もある。
応募先は名張ロータリークラブ事務局(〒518‐0729 名張市南町822‐2 名張産業振興センターアスピア4階)。募集期間は1月31日まで。
発表は3月9日発行の伊和ジャーナルで。受賞者には直接通知する。4月7日、名張産業振興センターアスピアで開催する50周年記念式典で授賞が行われる。
問い合わせは同クラブ事務局(電話0595・63・1338、ファクス0595・63・8163、電子メールnabarirc@e-net.or.jp)へ。電話受付は月・火・水曜と金曜の午前10時から午後4時まで(祝日を除く)。1月6日までは留守番電話で対応し、折り返し連絡する。ファクスや電子メールでの問い合わせも受け付ける。

名張ロータリークラブは創立45周年を記念して管内の6中学校に乱歩全集を寄贈した。今回の50周年では管内24の小・中学校にポプラ社の少年探偵シリーズのうち第1巻と第2巻を贈った。
二十面相ハドコニイル
のびのびと面白く書けた

「その頃、東京中の町といふ町、家といふ家では、二人以上の人が顔を合はせさへすれば、まるでお天気の挨拶でもするやうに、怪人『二十面相』の噂をしてゐました」
こんな書き出しで「怪人二十面相」の連載が始まったのは昭和11年のことだった。舞台は大日本雄弁会講談社の月刊誌「少年倶楽部」。作者の江戸川乱歩は探偵作家として出発し、名探偵明智小五郎が活躍する娯楽小説で花形作家の地位を築いていたが、少年向け作品を手がけるのはこれが初めてだった。
江戸川乱歩の長男、平井隆太郎さんは「怪人二十面相」という随筆で、当時の乱歩の心境をこう語っている。
「父はすでに小説を書く意欲を失っていました。批評家たちの攻撃に半ばうんざりしていたからです。『トリックがマンネリだ』というのはしょっちゅうでしたし、父の作品が実際の事件のヒントになっている、という指摘もかなりありました」
天才的な変装の名人で、高価な宝石や美術品だけをねらう盗賊、怪人二十面相。対するのは、明智小五郎の少年助手、小林芳雄君を団長とする少年探偵団。自分たちと同世代の少年が怪盗と堂々と渡り合い、知恵を働かせて恐怖や苦難を克服してゆく姿は読者をたちまち熱狂させた。
少年雑誌という新しい舞台に興味をそそられて「怪人二十面相」の連載を始めた乱歩のもとには、子供たちの手紙が驚くほどたくさん届いた。隆太郎さんはこういう。
「すぐに反響があり、父は正直喜んでいました。大人向けと違い、書くのも気が楽だったようです。トリックに多少の無理があっても批評の対象になりません。以前大人向けの作品で使ったものや、外国の作品のトリックを使ってもかまわなかったわけです。のびのびと書いていたので、面白く書けたのでしょう」
読書入門はミステリーで
江戸川乱歩が生み出した怪人二十面相というキャラクターは、小説だけでなく漫画、ラジオドラマ、映画、テレビアニメなどにくり返し作品化され、世代を超えて親しまれてきた。二十面相を主人公にした新たな作品も登場し、劇作家の北村想さんによる小説「怪人二十面相・伝」は「K‐20 怪人二十面相・伝」として映画化されるなどのひろがりを見せている。
その知名度からニュースの素材として扱われることもある。昨年10月、東京駅の改修が終わって東京ステーションホテルが生まれ変わったときには、海外から帰国した明智小五郎と外務省の役人に化けた怪人二十面相がこのホテルで初めて対決したというエピソードが新聞や雑誌でさかんに紹介された。
東京駅といえば、ミステリー作家の山口雅也さんが少年少女向けに書いた小説「ステーションの奥の奥」も東京駅を舞台にしているが、終幕、主人公の少年の前から去ってゆく叔父さんはこんなことを少年に語りかける。
「──叔父さんが一つだけ言い残しておきたいことは、ともかく、嫌というほどたくさん本を読めということだ。本を読んで知識を増し、思考力を鍛えるんだ。お前は身体が小さいから、腕力や体力で勝負するよりも、知力で勝負しろ。他人に言われるがままじゃなくて、自分自身の頭で考えられるようになれ」
知識を身につけ、思考力を養い、自分自身の頭で考えられる人間になる。そのためには本を読むことが必要だ、というこのアドバイスは子供たちにとって貴重なものだ。少年少女の読書入門には、謎解きの面白さが読者をぐいぐいひっぱってゆくミステリー小説がうってつけだろう。

■春を呼ぶ福娘募集
名張市観光協会は鍛冶町、蛭子(えびす)神社で2月7日と8日に催される八日戎(えびす)の福娘を募集している。
八日戎は三百年の伝統があるとされ、名張に春を呼ぶ祭りとして知られる。山の幸と海の幸を交換した市の名残といわれ、神社周辺では名物のハマグリが販売される。
境内ではネコヤナギの枝に俵や小判などの飾りをつけた縁起物の吉兆(けっきょ)が授与される。奈良県など県外からも善男善女が訪れ、商売繁盛や家内円満を祈願。一帯は福を求める人たちでにぎわう。
福娘は振袖を着て吉兆の授与などを手伝うほか、事前のPR活動やメディアの取材にも協力する。
対象は、名張市内に在住か在勤の未婚女性で、20歳以上30歳以下。定員は3人。12日午後2時から同神社で福引を行い、当たりを引いた女性が福娘になる。
申し込みは11日午後4時までに、はがき、ファクス、電子メールで、同協会事務局(〒518‐0729 名張市南町822‐2 名張産業振興センターアスピア1階、電話0595・63・9148、ファクス0595・63‐9138、電子メールinfo@kankou-nabari.jp)へ。

ことしも伊和新聞と伊和ジャーナルをよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。
大正時代から伊賀地域を見つめてきた地方紙・伊和新聞と、日刊紙の折り込みでお届けするフリーペーパー・伊和ジャーナルを、本年もどうぞよろしくお願いします。
伊和新聞は伊賀市と名張市の政治や経済を中心に幅広い題材を深く掘り下げて報道しています。地域の発展に身を挺した事業家の生涯をたどり、伊賀の近代史を跡づける「田中善助伝」は、田中善助の手で伊賀地域を南北に結ぶ伊賀鉄道が開設されるプロセスを描いているところです。
伊和新聞は毎週土曜日発行で、定期購読料は一か月600円。郵送の場合は別途160円が必要です。お申し込みは伊和新聞社(電話0595・63・2355)へどうぞ。
広告のご用命は伊和ジャーナルへお願いします。リーズナブルな価格で新聞折り込みによる確実な広告効果が期待できます。名張市と伊賀市青山地区をカバーする通常版のほかに、伊賀版も随時発行しています。
この一年が読者のみなさんにとってよい年であることをお祈りいたします。
2013年1月3日











 ■■ 1月1日(祝) ■■

 
■菊田実新春紙上展・ふるさとの四季を追って
名張市朝日町の写真家、菊田実さんによる恒例の新春紙上展。一昨年につづいて「ふるさと秀景」シリーズのパートUをお届けします。
菊田さんは昨年5月、写真展「写歴50年を振り返って」を開催。昭和30年代から現在までの作品を三部構成で集大成しましたが、もっとも人気を呼んだのは第一部「モノクロームへの郷愁」だったそうです。
過ぎ去った時代や失われた風景への郷愁が、モノトーンの表現によって逆に新鮮な印象で迫ってきた、という入場者が多かったとのことですが、この「ふるさと秀景」に撮影された現代の風景にも、ふるさと特有の静かな懐かしさが漂っています。
本日発行の伊和新聞新年号には、菊田さんの作品をカラー印刷でご紹介する全10点の新春紙上展を掲載しています。あわせてご覧ください。

春 霧中の桜並木 黒田堤


夏 夏の夜の風物詩 赤目不動滝


秋 川辺彩る紅葉 国津長瀬


冬 初雪の参道 宇流冨志禰神社

■新春に競う・5クラブ選抜展
名張市内で活動する五つの写真サークルのメンバーが自信作を競い合う「5クラブ新春選抜写真展」が12日から14日まで元町、イオン名張店3階リバーナホールで催される。
朝日町、菊田実さんを講師に市内の公民館で写真を学ぶ光影(名張公民館)、和光(比奈知同)、美光(美旗同)、写楽(蔵持同)、錦(錦生同)の五つのフォトクラブが参加。昨年につづいて二回目の今年は「この一作にかける心意気」がテーマ。感性と集中力に磨きをかけ、総合的な写真力を競うという。
昨年12月初旬まで一年のあいだに、みずから選んだ課題で撮影した5枚の組写真を提出、菊田さんによる選考で32人の作品が選抜され、1人2点ずつ展示される。
午前10時から午後6時(最終日は5時)まで。
出品は次のみなさん。 池田静、石尾定美、今中靖、今矢志げ子、奥西勲、奥村泰弘、梶原道明、神志那啓子、小竹庄吾、米野克己、柴田勝也、下浦義史、杉村浩、須美忠雄、高松敏昭、田川篤、竹本健、寺川昌太郎、中村満、中村マスミ、中森公久、中森千榮、西山孝義、長谷川清、福本好成、藤原淑隆、松田賢治、南義雄、毛利公、森智子、山中孝允、吉田以彦、菊田実

■田中善助水力発電所建設録
伊賀の地に三重県で初めて水力発電の明かりを灯した実業家

88歳当時の田中善助

一昨年3月の原発事故以来、電気というエネルギーがあらためて関心を集めている。原子力発電の是非から節電や省エネルギーの工夫まで、電気をふんだんに利用する現代生活の見直しを含めた電力をめぐる課題が浮き彫りにされているといっていいだろう。
三重県に初めて電気の明かりが灯ったのは明治30年のことだった。津電灯株式会社が火力発電で津市内への送電を開始し、西洋文明のまばゆい輝きが人を驚かせた。水力による発電はそれよりやや遅れて伊賀で最初に実用化され、木津川の流れを利用した発電所が上野町に電気の利便をもたらした。
水力発電を実現したのは上野町の実業家、田中善助だった。善助は商人の子に生まれながら事業に才能を発揮し、発電や鉄道などのインフラ整備に貢献して伊賀の近代化を力強く推進した。
伊和新聞の連載「田中善助伝」から、善助が手がけた巌倉発電所の建設をダイジェストする。

主張 「伊賀の川が怒っている」
明治30年──。
日清戦争の終結から二年が経過し、日本は近代国家としての歩みを着実に進めていた。伊賀の地にも新時代が訪れ、この年には関西鉄道が東から伸びて、佐那具駅、上野駅(現在の伊賀上野駅)、島ケ原駅の開業を見た。
その明治30年、上野青年会という青年団組織が発足した。発会式は上野忍町の芝居小屋、旭座で催されたが、2千人の参加者がつめかけ、2階席の床が抜けないか心配されたほどだった。
伊賀では前年、郡の合併が行われ、阿拝郡と山田郡が阿山郡に、名張郡と伊賀郡が名賀郡になっていたが、発会式には阿山郡長の岡耕三郎、名賀郡長の川田茂道ら来賓が勢揃いし、次々に祝辞を述べた。
やがて、ひとりの男が演壇に立った。小柄で痩せているが、精悍で機敏な印象だ。髪は短く刈って、額が広い。しゃくれたあごをし、唇を真一文字に引き結んで、いかにも意志の強そうな面構えをしている。
司会者から田中善助と紹介されたその男は、満座の聴衆に語り始めた。演説に慣れているのか、臆することなく自分の考えを、夢を述べてゆく。
「伊賀の川の水音が、諸君の耳には何と響いているだろうか。水はただ流れているだけだが、私には水が怒っているように聞こえる。水はなぜ怒っているのか」
善助は巧みな弁舌で聴衆の興味を一身に集め、まさに川の流れのようにしゃべりつづける。
「水には偉大な力がある。それを利用して電気を起こし、灯火や動力に用いることができる。水の力はいくらつかっても減ることがない。その力をむなしく川に流し、捨ててしまうのはじつにもったいないことである。偉大な原動力を木津川にただ流してしまっているのは、なんとも残念なことである。なぜ、おれの力を用いないのか。このおれの力を見捨てておくとはなにごとか」
善助はゆっくりと聴衆を見渡した。
「私には伊賀の川の流れが、そんな憤怒の声をあげているように聞こえる。諸君にはそれが聞こえないだろうか」
演説を終えた善助は万雷の拍手に包まれた。旭座の座敷いっぱいに参加者の賛同が渦巻いた。善助はわが意を得たりといった表情で演壇をあとにした。
だがこの年、数え年40歳になった善助はすでに2度、水力発電所の建設を計画しては失敗に終わることを経験していた。
計画 上野町で会社設立を企画
日本各地に発電所が建設され始めた時代、エキスパートとして水力発電事業をリードしたのが大岡正という電気技師だった。
大岡は幕末の安政2年に生まれ、明治5年、電信技士となって工部省、逓信省に勤務、同20年には海軍省へ移ったが、アメリカで水力発電が勃興しつつあるのを知って同22年、34歳で水力発電に志を立てた。電気技師として初めて建設に携わったのは神奈川県の箱根電灯発電所で、運転開始は同25年。これは関東地方では初、全国でも京都の蹴上発電所についで2番目の事業用水力発電所となった。
その大岡正が伊賀に足を運んだのは明治29年1月のことだった。大岡は新たな水力発電の場を求めて伊賀を訪ね、必要な調査を重ねたあと、地元の有力者だった森川六右衛門に水力発電事業の企画をもちかけた。
森川は嘉永7年生まれで、善助より4歳年上の実業家だったが、発電事業に賛意を示し、ひそかに発起人を集めた。集まったのは福田為吉、今中忠、清水恒太郎といった面々で、これに大岡も加わって事業に必要な出願などの手続きに入った。
その話を伝え聞いて、田中善助は激怒した。善助はそれまでに一度ならず、伊賀の発展のために水力発電を興すことの必要性を森川に進言していた。にもかかわらず自分に秘密で発電事業を計画し、無断で出願するとはなにごとか。
善助は怒りにまかせて森川に抗議の手紙を送りつけた。善助が怒るのはもっともだが、森川六右衛門にもいいぶんはあっただろう。
というのも、当時、田中善助は一介の商人に過ぎなかった。事業家としての活動も始めていたが、身分は金物商の経営者だった。善助が語る水力発電の夢は、森川をはじめとした上野町の有力者にとって海のものとも山のものとも知れぬ話でしかなかった。
いっぽう、大岡正は最新の知識と技術を身につけた水力発電のエキスパートであり、箱根や岡崎などに発電所を建設する実績もあげていた。伊賀の地勢や水系を実地調査し、それにもとづいて水力発電の事業化を説く大岡の言葉には十分な説得力があったはずだ。が、森川は素直に折れた。
翌日、森川の使いが善助のもとを訪れ、計画を通知しなかったことを詫びた。善助は矛を収め、発起人のひとりに名を連ねた。資本金三万円の株式会社が設立されることになった。
頓挫 名張町でも資金集まらず
田中善助は電力会社設立の実務を担当した。大岡正という頼もしい人材を迎え、地元の有力者による陣容も整って、準備はとんとん拍子で進むかと思われたが、思いがけない障壁が待っていた。
創業費が集まらない。それが障壁だった。発起人たちはいざとなると出資を渋り、様子見を決め込んだ。大岡からは資本金を3万円から5万円に増額するよう提案があったが、とても無理だ。
発起人を辞退する者まで出てきて、結局、創業に意欲を見せているのは善助と大岡だけということになってしまった。
善助と大岡は打開策を探った。しかし、何をしようにも先立つものがなくては手も足も出ない。
「大岡君、上野で創業するのはいったんあきらめて、名張に活路を開いてはどうだろう」
善助は大岡に腹案を打ち明けた。二段構えのプランだった。
「名張に青蓮寺川という川がある。青蓮寺川で発電して名張のまちに電力を供給する。これが第一期計画だ。少ない資本でも可能だと思う」
名張で発電を成功させれば上野からも資本が集まる。善助はそう読んでいた。名張で事業に着手し、第2期計画として名張から上野まで長距離送電を実現すれば、資本増加のための株式募集も容易に進められるはずだ。
善助の言葉を聞いた大岡は顔を輝かせ、一も二もなく賛成した。
善助は名張町の南、箕曲村青蓮寺に住む知人を自宅に招き、名張町の有力者の意向を打診するよう依頼した。_
知人からは電報で報告が届いた。名張の有志はみな大賛成だ、早く名張に来るべし、と知人は伝えてきていた。善助と大岡は勇躍、上野町を出発した。
名張町では発電事業に意欲を見せる有力者が待っていた。協議の結果、資本金を3万円とし、創業費としてひとり50円ずつ徴収することも決まった。決議書への署名捺印が行われ、そのあと全員で祝宴に臨んだ。明治29年6月24日のことだった。
しかし名張町でも、上野町と同じことが待っていた。やはり創業費が集まらない。田中善助と大岡正の失意のうちに明治29年はむなしく暮れていったいった。
明治30年、田中善助は上野青年団の発会式で挨拶に立ち、水力発電事業の重要性を訴えて万雷の拍手を集めたが、事業計画は頓挫していた。伊賀の発展を約束する発電の夢は、どの川にも結ぶことができなかった。
着工 県の許可なく独断で着工
田中善助は阿山郡壬生野村山畑にある白藤の滝や布引村の馬野川でも水力発電を計画したが、実現には至らなかった。そのあと目をつけたのが木津川の巌倉峡だった。
巌倉峡は阿山郡新居村波野田に位置し、急流が水力発電に適していた。善助は他人に頼らず独力で発電所を建設する腹を決め、現地を測量して計画を練りあげると、三重県に木津川の水利使用許可申請を提出した。
だが1年、2年といたずらに時間が経過するばかりで、三重県の許可はいつまで待っても下りなかった。
明治35年──。
9月のある日、上野町の空に爆音が響いた。城下町の北西にあたる巌倉峡から発破の大音響が聞こえてきた。業を煮やした田中善助は三重県の許可を得ないまま工事に着手し、峡谷の岩盤を発破で爆破する作業を進めていた。
さすがに上野警察署から注意があり、阿山郡長が現場に駆けつける騒ぎとなった。郡長は工事の中止を要請したが、善助は恐縮を装いながら適当に言葉を濁し、工事をやめようとはしなかった。
田中善助は何度か上野警察署に呼び出され、工事をやめるよう注意を受けた。その場では頭を下げて「わかりました」と返事をするものの、善助は意志を曲げない。強情を張って毎日、巌倉峡に通いつづける。
ついに警察署から、要請や注意ではなく、工事の中止命令が出た。ある朝、現場を訪れた警察署長が善助に告げた。
「これ以上、見過ごしにはできない。ひとまず一週間ばかり、工事を中止するよう命令する。それからきょう、県庁から係官が調査に来ることになっている」
善助は低頭し、それでも工事を続行する。やがて、県の係官が人力車でやってきた。現場では多くの人夫や石工が作業に追われていたが、善助の号令一下、蜘蛛の子を散らすように周囲の山へ逃げて身を潜めていた。
県庁から訪れたのは土木課長だった。善助の出願書類を未決箱の下に眠らせつづけていた官吏のひとりだ。前例墨守を旨とする官吏の世界では、前例のない出願書類など黙殺されるのが当然だったかもしれないが、県の許可を待たずに着工したのは処罰の対象とならざるを得ない。
土木課長は建設現場を歩き始めた。施工されたセメントをステッキで軽く突いてみせ、善助に顔を向けて、何もかもお見通しだぞといわんばかりににっこりする。
完成 電気が告げた近代の開幕
田中善助は河川取締規則違反と森林法違反で告発された。しかし裁判では「被告の行為は国家的有意義な事業のためである」として善助の独断専行に温情が示され、2件の違反で合計7円という微々たる罰金が科せられただけだった。
この裁判が事態を大きく進展させ、判決からわずか五日後に県から水路工事の許可が下りた。
しかし田中善助は、ほかにも大きな悩みを抱えていた。水力発電所の建設資金だ。株式会社を組織して資金を募るのが当初の計画だったが、出資者が集まらなかったため、善助は資金のめどが立たないまま工事を始めていた。
それでも善助は巌倉峡に通った。徒歩で往復するその姿に打たれたのが浜辺喜兵衛、服部孝太郎、筒井喜一郎という上野町を代表する名家の当主3人だった。3人はこんなことを話し合った。
「どうも見ておれぬじゃないか。工事はどんどん進む。金は要る。なんとか田中を助けてやろう」
三人は善助にこう持ちかけた。
「われわれで知人七、八人に声をかけ、一万円の建設資金を提供してやろう。だが、気づかいはないか。水力発電所はきっとできるのか」
尋ねられた善助は三人の前で胸を張った。
「ご安心ください。京都市では水力電気の明かりが灯っています。琵琶湖の水で発電した電気です。規模は小さいですが、伊賀の川の水でも電気は起こせます」
明治37年──。
田中善助の新年は希望に満ちていた。測量開始から数えればちょうど2年。多事多難な日々を重ねたが、有力者の支援を得て資金面の心配もなくなり、善助は意気揚々と巌倉峡に通いつづけた。
田中善助が心血を注いだ発電所がついに完成した。2月11日、神武天皇即位の日とされていた紀元節を選んで、巌倉水力発電所の開業式が営まれた。
前日の10日は日本政府がロシアに宣戦布告し、日露戦争の火蓋が切られた日だった。開業式の会場には日本海軍がロシアの巡洋艦を攻撃して自沈させたという知らせがもたらされ、開業と海軍の戦果をともに祝福する万歳が響き渡った。
日本という小さな国が「坂の上の雲」を目指して近代国家への歩みをつづけていたころ、田中善助はこの伊賀の地に近代の開幕を告げるさまざまな事業に身を挺していった。巌倉水力発電事業もまたそのひとつにほかならない。

巌倉水力発電所の水路工事(明治35年10月)


右に見えるのが建築中の発電所(明治35年11月)


木津川から発電所への水路を築く(明治36年5月)


明治25年、数え年35歳の田中善助

田中善助略伝
商業から事業へ 田中善助は明治維新を10年後に控えた安政五年、上野城下相生町で下駄屋を営む竹内長兵衛の長男覚次郎として生まれ、15歳で叔父田中善助の養子となった。明治12年、22歳のとき養父が死去したため家督と名を継ぎ、家業の金物商を切り盛りしながら事業にも乗り出して銀行の設立や荒地の開墾などを手がけた。
水力発電所の建設 水力発電を思い立ったのは明治29年のことだったが、協力者が得られず挫折をくり返し、37年になってようやく巌倉水力発電所を完成。翌年、巌倉水電株式会社を設立して社長となった。発電所は昭和17年、新居発電所と改称、戦後も中部電力の発電所として稼働していたが、28年の台風で被害を受け、30年に廃止された。善助は伊賀地域では青蓮寺川発電所と比奈知川発電所も建設したほか、京都府の関西水電笠置発電所、滋賀県の近江水電萱尾発電所の水力発電事業にも携わった。
近代化の基盤整備 田中善助の業績はこれにとどまらない。大正5年には関西本線から上野町まで鉄道を開設し、伊賀軌道として営業。11年に上野町から名張町まで路線を延長し、伊賀鉄道の名で運行を開始した。ほかにも伊賀傘、窯業などの産業振興に尽力し、上野町長として下水道整備も実現。その生涯は伊賀が秘める多様な可能性を追求し、事業として開花させる試みのたゆみないくり返しだったといえる。鉄城という号をもつ趣味人としても知られ、昭和19年には自伝『鉄城翁伝』を出版、21年に死去した。自伝を含む著作は『田中善助伝記』(前田教育会刊)にまとめられている。