■名張市と桔梗が丘
名張市出身の歌手、平井堅さんの「桔梗が丘」が人気を呼んでいる。ミサワホームのテレビCMソングとして全国でオンエアされ、反響が大きかったことから昨年10月に配信限定ソングとしてリリース。故郷の地名をタイトルにし、家族愛をテーマにした約一年半ぶりの新曲として評判になった。作詞・作曲も平井さんが手がけている。
桔梗が丘で撮影したミュージックビデオも好評だ。-近鉄電車で実際に帰郷し、桔梗が丘駅で降りて実家に着くまで、桔梗が丘各地の風景を織り込んだ映像がつづく。実家ではお母さんがすき焼きの用意をし、ともに食卓を囲む本物の親子共演シーンも収められた。
平井堅さんは1972年、東大阪市に生まれ、2歳から高校卒業まで桔梗が丘で過ごした。楽曲「桔梗が丘」の制作では「改めて『家族』について考えました。まだ自分の家庭を持っていない僕にとって、ふるさと『桔梗が丘』が帰る場所であり、家族の象徴です」とコメントしている。
一日付「田中善助と伊賀鉄道」のスピンオフアイテムとして、「田中善助伝」に使用した年表や写真もまじえながら、桔梗が丘の歩みを簡単にたどってみよう。
1960年、近畿日本鉄道が計画面積2,475,000平方メートルの大規模住宅地の造成を構想し、名張市に協力を要請した。開発地は旧名張町の東に隣接する旧蔵持村が中心で、71年までに7千戸、計画人口2万7千人の住宅地が造成される構想だった。
新しい住宅地は、名張藤堂家が桔梗の花を家紋としていたことにちなんで桔梗が丘と命名され、造成地内を通過する近鉄大阪線に桔梗が丘駅が新設されることも決定していた。
64年、桔梗が丘駅が開設され、翌年には桔梗が丘一番町、66年には二番町、68年には三番町と新しい町が次々に誕生していった。
大手開発業者による宅地造成は桔梗が丘を第一号として、70年代に緑が丘、富貴ケ丘、つつじが丘、さつき台、赤目町新川、すずらん台、美旗町池の台、80年代に入って百合が丘、梅が丘と相次いで進められ、名張市は急速な人口増を推進力に成長をつづけた。
60年前の市制施行時には3万人あまりだった名張市の人口は、昨年12月一日現在で8万1,612人。ただし21世紀に入ると同時に市人口は漸減を始めており、今後も少子高齢化が進む。
開発から半世紀。ニュータウンだった桔梗が丘も、成長して土地を離れた子供たちには年齢を重ねた親が待つ懐かしいふるさとになった。成長を終えた時代の新たな地域コミュニティ像が模索されるべき時期だろう。
■伊賀百筆 1年ぶりに23号発行
地域雑誌「伊賀百筆」の第23号が発行された。
伊賀市民七人による編集委員会(北出楯夫委員長)が一年ぶりに刊行した。
終戦直後の旧上野市で回覧雑誌「パルナッス」を拠点にくりひろげられた若い世代の文化運動を「パルナッスの丘とその周辺」と題して特集し、関係者の回想をまとめたほか、小説や詩歌、災害の緊急レポートなど多彩な作品を収録。
A5判、220ページ、定価1,300円。伊賀地域の主要書店で取り扱っている。
内容は次のとおり。
▽パルナッスの丘とその周辺=「続・上野わすれな文化史」野村拓、「パルナッスの
丘≠ニいう亡霊─あの頃のこと」西村徹、「パルナッスとはなんだったのか」森川博、「伊賀上野の思い出」佐藤喜美子
▽短歌・俳句・詩=「夕焼小焼」坂本久子、「早苗饗(さなぶり)のころ」金谷正智誉、「一筋の風」榧の実句会、「自選二十句」福沢義男、「伊賀の山傍(やまび)」谷本州子
▽上野天満宮拝殿再建記念奉納俳諧の連歌「歌仙『新宮(あらみや)の香』の巻」伊賀連句会
▽横光利一=「井上謙先生を偲んで」福田和幸、「危いことのみ書きさうです 高松棟一郎宛横光書簡(『定本横光利一全集』未収載)」北出楯夫、「横光利一作『日輪』と『上海』から」宮田治三
▽自分史の断片=「パリは恋人─わが文学紀行─」福沢義男、「昭和38年の陸上競技」北出楯夫
▽「気息奄々(きそくえんえん)的復活撮影日誌」𠮷村芳之
▽創作=「ゆめ幻の伊賀」長谷川直哉
▽連載=「伊賀の文学風土記(23)『平成の伊乱記』」福田和幸、「老人のたわごと(11)或る巡査の思い出」武田昌一、「くさぐさの言葉(13)富士山」田村敏子、「美人はなぜ美しいのか(3)」故・華房良輔
▽創作=「いのちの炎(ほむら)」中村ちづ子
▽緊急レポート=「2013年台風18号被害の検証(実は老朽化? 木津川の治水はどうなる?)」武田恵世
▽漫才無宿御意見無用=「僕は○○○○○○」「テロになるまで待てない」「僕の図書館戦争」中相作
▽編集後記=北出楯夫
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平井堅さんのミュージックビデオ「桔梗が丘」に登場する桔梗が丘駅のホーム=YouTube映像の一部
1964年に開設された当初の桔梗が丘駅
1930年代の大阪電気軌道と参宮急行電鉄の沿線図。1929年(昭和4)に合併された伊賀電気鉄道も含まれている
桔梗が丘住宅地の開発計画で公表された「桔梗が丘ニュータウン」の造成完成後の予想図 |
■菊田実新春紙上展 ふるさと秀景3
春 滝川堤の桜 滝川の清水に桜並木映して・赤目町丈六
夏 紫陽花の名寺 市内唯一の紫陽花の名所・西田原弥勒寺
秋 古墳の夜明け 仲秋の朝、古墳群は幽玄に目覚める・女郎塚
冬 古代の丘雪化粧 一帯の雑木林も見事な雪化粧・夏見廃寺
■田中善助と伊賀鉄道
伊賀に近代の開幕を告げた事業家が水力発電についで手がけた地方鉄道
伊賀に近代の開幕を告げた事業家、田中善助の事績をたどる。
明治維新を十年後に控えた安政五年、伊賀上野の城下に生まれた田中善助は、養子となった金物商の経営に力を注ぎながら治水や開墾などの事業に従事、さらに木津川の流れを利用した発電所を建設して、上野町に三重県初となる水力発電の明かりを灯した。
水力発電のあと、善助の目は地方鉄道に向けられる。上野町から隔たった地点に開設された関西鉄道の駅と城下町とを結び、ついで名張町までの延伸を実現した大正時代の奮闘ぶりを、伊和新聞の連載「田中善助伝」からダイジェストしてお送りする。
関西鉄道 東柘植村に県最初の駅
いまから140年あまり前の明治5年、新橋・横浜間に日本最初の鉄道が開業した。明治時代に入って旅客や貨物の交通は道路から鉄道に舞台を移し、鉄路は近代化を支える基盤として全国に四通八達していった。
新橋駅と神戸駅が鉄路で結ばれたのは明治22年のことだったが、コースから外れた地域では独自に鉄道を敷設する動きが始まった。そのひとつが三重と滋賀の2県にまたがる関西鉄道だった。
関西鉄道は明治21年に創設され、翌年に草津・三雲間が、その翌年には三雲・柘植間が開業、現在の草津線が開通した。
三重県最初の鉄道駅となった柘植駅は明治23年2月、阿山郡東柘植村に開設され、同年12月には柘植・四日市間が開通して、柘植駅は伊賀地域における物資の集散拠点となった。『上野市史』は「柘植以西の鉄道が開通するまで、数年間は柘植駅の黄金時代であった」と伝える。
関西鉄道は明治26年、柘植・奈良間の延長を出願して許可を得た。柘植から西へ、上野町を通過するルートが新設されることになったが、上野町のどこに駅を開設するかが問題になった。
上野町へ鉄道を乗り入れるには線路を迂回させる必要があり、架橋の数も増やさなければならない。関西鉄道はその経費を地元が負担するよう求めたが、金額は上野町の年間予算を上回っていたと伝えられている。
結局、関西鉄道は上野町を通らず、約4キロ北の阿山郡三田村に上野駅が設けられた。開業は明治30年の1月。11月にはさらに加茂駅まで延伸され、関西鉄道は伊賀地域の北部を東西に貫いた。
だが上野町から上野駅までは牛馬や荷車、人力車に頼らねばならず、町民は不便をかこっていた。上野新町で金善という金物商を営んでいた田中善助もその一人だった。
鉄道計画 上野駅から上野町まで
田中善助は一介の商人ではなかった。明治37年に木津川で三重県初の水力発電を成功させ、事業家としての盛名を県外にまで響かせていた。滋賀県や京都府でも水力発電に携わり、明治43年には上野商工会の会長に就任。50代の働き盛りを迎えていた。
明治時代も終わりを告げようとしていたころ、上野東町で中村伊左衛門が経営する和菓子屋を訪れた田中善助は、店先で田中鹿之助に出会った。同じ苗字だが親戚ではない。上野幸坂町に住む若い商人だった。
田中は善助を見ると挨拶もそこそこに、「ご相談申しあげたいことがありまして」と切り出した。奥から中村も出てきた。
日露戦争の終結後、ということは明治38年以降ということになるが、上野町の意気盛んな若い商業者が交友会という団体を組織し、時局を論じて上野町に意見を具申するなどの活動をつづけていた。
田中も中村もその会員だった。二人は交友会が信託事業への進出を計画していると打ち明け、善助に意見を求めたが、善助は言下に否定した。
「信託事業に手をつけては銀行を向こうにまわすことになる。それは青年がやるべきことではないし、だいいち君たちの資産ではとても無理だ。そんなことより、地方の人たちを喜ばせ、後世に残る事業をやってはどうか」
「どんな事業ですか」
田中と中村は異口同音に尋ねる。
「上野から三田へ鉄道を敷くことだ」
関西鉄道上野駅の誕生以来、長く上野町の懸案となっていた駅へのアクセスという地域の課題を、田中善助は交友会の若い世代に託した。
「君たちが奮起するなら、私も精一杯の助勢をしよう」
善助は二人にそう約束して、鉄道計画の実現へ向けて背中を押した。
両宮鉄道 頓挫し放置された線路
交友会は田中善助の提案を検討した。菅野原造、吉岡健三郎らが善助の家に通って助言を受け、交友会の有志が鉄道計画を出願することになった。
伊賀地域に鉄道が計画されるのは初めてではなかった。最初は明治26年、つまり関西鉄道上野駅が開業する3年あまり前、大阪の事業家の手で伊賀鉄道という名の地方鉄道が出願された。
名称こそ伊賀鉄道だったが、計画されていたのは上野駅から阿山郡花之木村、伊賀郡古山村、名張町を経て奈良県の宇陀郡榛原町に至るルートだった。
しかし順調には進まず、伊賀鉄道は明治33年、社名を両宮鉄道に変更、会社を名張町から宇治山田町に移したものの、結局は資金がつづかず頓挫を余儀なくされた。
両宮鉄道が解散した時点で、上野駅から花之木村大内までの線路は完工していた。大阪の鉄道会社が計画を引き継いだが、それも実現に至らず、両宮鉄道の線路は一度も使用されないまま廃線となって放置されていた。
交友会が計画したのは、三田村の上野駅から一直線に南下し、上野城址の東を通過して菅原神社の北、丸之内地内に終点の駅を設ける路線だった。
上野駅から城址の西を通って花之木村まで完成していた両宮鉄道の線路とは関係なく、ほぼ最短距離のコースに新たにレールが敷かれることになった。
プランがまとまり、発起人九人は大正2年10月に鉄道計画を出願した。翌年3月、鉄道院の許可が下り、株式を募集して資本金15万円の伊賀軌道株式会社が設立された。
社長には菅野原造が就任し、発案から路線決定、株式募集までを実質的に主導した田中善助は取締役として事業に携わった。
伊賀軌道 海千山千の人物相手に
大正3年、伊賀軌道開設のための実地測量が始まってまもなく、二人の男があわただしく田中善助の家を訪ねてきた。二人は上野駅から花之木村まで完成していた両宮鉄道の線路を購入し、いずれそれを売り払って一儲けしようと企んでいた人物だった。
だが、伊賀軌道は上野城址の東を通って開設されることになっていた。このままでは高く売り飛ばす目的で購入した両宮鉄道の線路は不要のものとして見捨てられてしまう。
二人は善助に頭を下げて懇願した。
「鉄道を走らせるのならあの廃線をつこうてくれんか」
善助は単刀直入に交渉を進めてゆく。
「いくらで売るのか」
「3万5千円」
「話にならない。伊賀軌道は資本金15万円の会社だ。鉄橋を架けるだけで10万円近くかかるから、3万5千円はとても無理だ」
事業家として海千山千の人間も相手にしてきた経験から、善助は交渉術に長けていた。
「どうだ。私のいうとおりにすれば買うてやってもいいが」
善助はそう前置きして話を進めた。まず、上野駅から小田村鍵屋辻までの線路全部を5千円で買う。鍵屋辻から花之木村までの線路には、あとで使用することになったとき1万5千円を支払う。
「合計で2万円になるが、さしあたりいまは5千円で売っておけ」
交渉は成立した。上野駅から鍵屋辻まで約3.2キロの線路と橋脚がわずか5千円で転がり込んできた。
この廃線を利用すれば、線路は鍵屋辻から丸之内の終点駅まで新設するだけで済む。当初の計画に比べるとルートが蛇行してやや迂回を強いられるが、建設費という点では比較にならないほど安くあがった。
伊賀鉄道 開通のあと名張へ延伸
大正3年12月、伊賀軌道は路線の変更を出願し、両宮鉄道の廃線を利用して城址の西を通過する新しいルートが決定された。
じつは田中善助は、最初から両宮鉄道の線路をつかう腹づもりだった。あえて別の路線を計画して発表したのは、廃線を不要なものと思わせて安く買い叩くための策略にほかならなかった。
関西鉄道は明治40年に国有化され、上野駅は大正5年、伊賀上野駅に改称された。同じ年の8月8日、伊賀軌道は地域の期待を担って開業した。伊賀上野駅から上野町駅(現在の上野市駅)まで約3.9キロの区間に、地元資本だけで設立された地方鉄道が運行を開始した。
田中善助はただちに次の手を打った。大正6年、伊賀軌道は上野町から名張町まで路線を延伸する鉄道計画を出願し、免許の交付を受けた。それにともなって社名を伊賀鉄道に変更し、翌七年には善助が社長に就任した。
田中善助は取締役という立場で鉄道事業に携わっていたが、名張町までの延伸には資本金を一挙に50万円増資する必要があり、それを募集するためには善助が最高責任者として前面に立つことが名張町の行政関係者や住民から求められた。
延長する路線は上野町駅を起点とし、城下町の繁華街を西から東に横断、そのあと木津川沿いに南下するコースに決定した。
鍵屋辻駅から先の廃線を利用すれば建設費は10万円ほど安くなったが、土地の買収や家屋の移転という難事を引き受けてでも市街地に鉄道を通し、地域住民の身近な足とするのが善助の一貫したねらいだった。両宮鉄道の残りの廃線を利用するとほのめかしたのは、やはり善助一流の策略だった。
参宮急行 都市資本の買収で退陣
伊賀鉄道が延伸されることになった名張町では、終点をどこにするかで町民の意見がわかれた。伊賀鉄道は広垣内(ひろがいと=現在の木屋町)に名張駅を開設すると決めていたが、それに反対し、その手前の八町を終点にすべきだという声があがった。
八町にも駅が設けられることになっていたが、八町を終点として一帯を名張町の表玄関にしたいというのが反対派の主張で、大正九年が明けてまもなく、松崎町、榊町、八町、平尾など七町が名張町長に反対意見書を提出する騒ぎに発展した。
しかし伊賀鉄道は計画を変更せず、反対運動は実ることがなかった。大正9年に工事がスタートし、11年7月18日に上野町駅・名張駅間が開業した。
伊賀上野駅から名張駅まで全線が開通すると、今度はその電化が課題になった。着々と準備が進められ、大正15年5月25日に電化が実現して、伊賀鉄道は伊賀電気鉄道に社名を変更した。
しかし昭和4年、伊賀電気鉄道は創業からわずか13年で大阪電気軌道に合併されてしまう。伊勢への進出を目指していた大阪電気軌道は昭和2年に参宮急行電鉄を設立し、名張と宇治山田とを結ぶ鉄道計画を出願させたが、その認可には「伊賀鉄道を買収または補償」するという条件がつけられていた。
伊賀電気鉄道の経営は順調だったが、「協議のうえ大軌へ買収合併を受けることとし、昭和4年、われわれは退陣しました」と善助は回顧している。 強大な都市資本の前に退陣以外の道はなかった。昭和4年4月1日、前日まで伊賀電気鉄道だった地方鉄道は大阪電気軌道の所有となり、参宮急行電鉄に貸与されて、伊賀線という名で走り始めた。。 |
88歳当時の田中善助
伊賀鉄道写真集
@上野町駅を背景にした電動客車
A電気機関車
B丸山変電所(以上は大正15年発行の伊賀鉄道電化記念絵葉書)
C美旗新田の用水路トンネルを通過する伊賀鉄道建設列車(田中善助自伝『鉄城翁伝』に収録)
D大正11年に開設された伊賀鉄道の名張駅。昭和五年の参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線)開通にともなって西名張駅と改称され、昭和39年に廃止。跡地には西名張郵便局が建っている。
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