■■ 1月1日(祝) ■■

 
■謹賀新年
新年あけましておめでとうございます。
すっかりおなじみになった写団なばり代表、松田賢治さん(名張市新町)の新春写真展。一月一日付伊和新聞の「ふるさとなばり四季10景」では、ふるさとが見せるさまざまな表情を鮮やかなカラー印刷でお楽しみいただけます。
大正十五年に誕生した伊和新聞は今年が創刊九十一年目。毎週土曜発行で、定期購読料は一か月六百五十円です(送料別)。お申し込みは伊和新聞社(電話0595・63・2355)へどうぞ。  伊和ジャーナルと伊和新聞を、本年もよろしくお願いします。

■いが再発見 現代版旅は道連れ、世は情け
毎回好評を得ている伊和新聞で掲載の「いが再発見」企画。平成29年10月7日号の「牛汁」を皮切りに忍者、お水取り、おけら詣り…など、多彩な読みものが登場した。その中から、おかげ参りの陰にひそむ美談を紹介する。
長谷寺へ向かえば初瀬街道、伊勢神宮へ向かえば参宮街道と呼ばれた幹線道路。この街道は江戸後期を中心にして大変なにぎわいを見せた。明治の初め、西国霊場めぐりを思い立った山形の旅人が不幸にして名張の旅館で病に伏し、23歳で亡くなった。しかし、亡骸は旅館の主人らの厚意で葬儀が執り行われ、近くのお寺に納められた。その37年後、成長した遺児は同地を訪れ、お墓で霊を慰め、父親が倒れた旅館で盛大な法事を営んだ。さらに105年後の2014年、今から3年前だが、その子孫たちが、かつての旅館とお寺を訪れ、先祖をしのんだというのだ。日本人の人情もまだ捨てたものではない。
この内容は山形市で発行されている「村山民俗学会」の会報264号に掲載されたもので、筆者は山形県立博物館専門嘱託の野口一雄さん(71)。史料は亡くなった植木彦治郎のひ孫にあたる正助さん(81)から示されたものだ、という。
1つ目の史料は亡くなった彦治郎の様子を伝える口上。1872年(明治5)、霊場めぐりのため仲間2人と西国に赴くが、翌年、伊賀国名張郡安部田(現名張市)の吉岡文右衛門宿で病に倒れ、帰らぬ人となった。行年23歳。葬儀は地元の人たちの厚意により安部田の宝泉寺で執り行われた。
2つ目は彦治郎の息子、彦吉の孝行ぶりを宝泉寺の住職がたたえた文章。彦吉は父の供養費用を寺に送り続ける一方で、父の倒れた名張の地をいつの日か訪れることを夢見て、その旅費を捻出するため、10年以上も毎月、貯金を続けた。そしてようやく念願がかない、1909年(明治42)、父の37回忌に三重県名賀郡錦生村(安部田村合併後の村名)を訪ねることができた。葬儀の導師だった泉最善住職に回向(えこう)を願い、亡父が世話になった吉岡旅館で盛大な法事を行い霊を弔った、とある。
特に後者の文章は、父親に対する彦吉の孝心に最善住職が感動した様子がよく表れている。人々の模範になるほどの信仰心だと感激しているのである。だから、感動した住職が文章を認め、彦吉に送ったのだろう。
11月のある日、安部田の宝泉寺を訪ね、現住職の岩本善雅(ぜんが=64)さんに話を聞いた。最善師は先々代の住職にあたる。
善雅住職によると、寺は1815年(文化12)に焼け、古い記録は残っていない。しかし、最善住職による記録は残っていた。善雅住職に確認してもらうと、明治6年、植木彦治郎氏は吉岡旅館で亡くなっており、最善師が彦吉をたたえた文章ももっと簡略だが載っているという。彦吉に送るだけでなく、備忘録の意味で手元に残したのかもしれない。
話は彦吉のお孫さんたちの訪問にも広がった。2014年6月7日のこと。突然電話があり、これからお寺を訪ねたいとのことだった。
「7人でみえられたのですが、何しろ遠方から来られることはあまり例のないことでびっくりしました」
よほど強い印象があるのか、植木家からのお布施の封筒を保存しておられた。表には「御布施 植木栄一郎」とあった。「ご家族みんなで来られました。名古屋までは飛行機、その後は車で、とおっしゃっていました」善雅住職はいまだに忘れられない思い出のようだった。
安部田の旧吉岡旅館も訪ねた。旅館はすでに廃業。現在は吉岡泰子さん(76)が家族と住んでおられるだけ。ここにも同じ7日、長男・栄一郎さん(88)、二男・正助さん、お姉さん(84)たち植木ファミリーが訪ねてきた。「突然、植木ですが、と電話があり、これから訪ねていいか、といわれてびっくりしました」と泰子さん。亡くなった夫からも、義父からも、植木家との因縁を何も聞かされていなかった泰子さん、ただ驚くばかりだった。とかくするうち、105年ぶりに吉岡家と植木家の子孫の対面が実現した。
栄一郎さんからは「ウチの先祖がここで亡くなり、葬式を出してもらいお世話になった。そのお礼がてらにおじゃましました。そのときは、お坊さんまで呼んでもらい本当にありがたい」といわれた。泰子さんは奥から立派な額入りの口上と彦吉をたたえる最善住職のコピーを出してきて、対面時の様子を話してくれた。さらにその後がある。「今も栄一郎さんとはお付き合いがあります。毎年、山形特産のサクランボが送ってくるのですよ。私も何かはお返ししているのですが」泰子さんの表情が緩んだ。
話を聞いているうち、こちらも何かほのぼのとした気分になってきた。
その後、山形市に住む正助さんに電話して、3年前のことを聞いてみた。
名張を訪れようというのも急なことだった、という。「私らも年ですし、足腰が立つうちに先祖がお世話になった三重(名張)の方に、ひと言お礼を申し上げたい、と思い立ったものですから」。
山形から仙台空港までタクシーを使い、仙台から名古屋空港に飛び、名古屋からはまたタクシーに乗る。7人だから相当費用もかかったはずだ。
「確かにお金もかかりましたが、これは金の問題ではなかったです。先祖によくしてくれた地元の人に感謝したい。それだけでした」。
電話口でとつとつと話す正助さんの声を聞いて、ひょっとしたら、彦吉さんもこんな人ではなかったのかな、と想像した。やっぱり血は争えない、と思ったのである。
いい気分のついでに初瀬街道の雰囲気に浸ってみたいと名張・中町の入り口にある「一の鳥居」の前にやってきた。電柱に小さく「初瀬街道」のプレートが掛かっている。 鳥居は1778年(安永7)の建立。説明によると、このころ「おかげ参り」が流行し、1日に9200人以上の人が街道を通過した、とある。人影のまばらな街道を見渡しながら往時のにぎわいを想像するのはむずかしいが、その当時、旅で行き倒れた人も多くいたに違いない。そんな中で彦治郎さんのような幸運な人もいた。「旅は道連れ、世は情け」のコトワザがふと、浮かんだのである。(小谷 虎彦)

■福娘になりませんか
あなたも福娘になりませんか――、名張市観光協会は、名張市鍛冶町の八日戎(ようかえびす)の福娘3人を募集している。
対象は応募時点で満30歳までで、今年は18歳以上の高校生も可。市内在住、在学、在勤のほか、親戚が名張にいるなど、名張にゆかりのある未婚女性。今月28日、応募者の中からくじ引きで選ぶため、これに参加できること。
八日戎は名張に春を呼ぶ蛭子(えびす)神社の祭りで、市内外から多くの人出でにぎわいをみせる。古から山の幸と海の幸の交換の場ともいわれ、蛤(はまぐり)が街道で売られることでも有名。
福娘は参拝者に商売繁盛の縁起物がついた吉兆(けっきょ)を手渡すほか、メディアなどのPRにも一役かう。 申し込みは1月22まで。インターネットで名張市観光協会を検索し、応募用紙に必要事項を記入する。問い合わせは電話0595(63)9148まで。

■東山墓園で追悼式・13日名張宗教者連携会
昨年10月22日から23日にかけ接近した台風21号の豪雨で、被害に遭った市営東山墓園の霊を慰めるため、名張市宗教者連帯会(耕野一仁会長)は1月13日午前10時から同30分まで、宗教、宗派の枠を超えた追悼式を行う。連帯会は神道系、仏教系、キリスト教系、その他の宗教団体で構成され、幅広い慰霊祭になる。会員以外の宗教者、一般の人も参加可能。
181区画の崩壊した墓石には、いまなお遺骨が分散しており、耕野会長は「市営霊園はお寺の墓地と違い、いろんな宗教の人が眠っている。宗教者連帯会は名張市内の宗教者団体です。仏教でもいろんな宗派の人がおります。被害に遭われた石碑、遺骨に思いを寄せ、霊が安らかなることを願い、丁寧に追悼したい」と話し、「特定宗教の儀式は行いませんが、献花は行います。一般の方も自由に参加いただけますが、できるだけ儀式服などでおこし下さい」と呼びかけている。 名張市宗教者団体の役員は次の通り。会長・耕野一仁(地蔵院青蓮寺)、副会長・中森孝栄(宇流冨志禰神社)、本吉則夫(天理教名張支部)、事務局長・兀ノ下照光(桔梗が丘ルーテルキリスト教会)、書記・川崎忠之(立正佼成会津教会名張支部)、会計・生田茂夫(稲荷神社)、監事・山高和也 (常蓮寺)、監事・濱本満世(黒住教名張教会所)の皆さん。

■松田賢治新春展

春風桜舞 下比奈知/永福寺


盛夏を彩る 新町川原

晩秋の流れ 赤目四十八滝/琵琶滝


氏神の冬日 平尾/宇流冨志禰神社


いが再発見〜現代版旅は道連れ、世は情け〜

植木さん一家の訪問時を話してくれた岩本善雅住職


贈られた口上などを額に入れて持つ吉岡泰子さん


名張・安部田にある旧吉岡旅館跡を訪れた。盛時は4棟もあったという


名張・中町入り口にある大鳥居