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■■ 2月24日(土) ■■ |
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■伊賀再発見(16)
「へえ〜 そうなんだ。伊賀は素晴らしい」と好評を博している「伊賀再発見」。これまで慢性甲状腺炎を世界に広めた「橋本病」や大歌人に賛美された才女・白秋の妻、「大河ドラマに高虎を」と奮闘する伊賀文化産業協会専務理事の福田和幸さんらを紹介している。今週は伊賀人にとって「天正伊賀の乱」とは―、 赤目に残る信長の非道を紹介した。
伊賀人にとって「天正伊賀の乱」とは
「天正伊賀の乱」とは、16世紀後半、織田信長と伊賀惣国一揆が2度にわたって対決。1度目(天正6〜7年)は伊賀衆が勝ち、2度目(天正9)は5万の勢力の信長が圧勝した。村々や寺院を焼き払い、暴虐の限りを尽くし、9万の人口の内、3万人が死んだとされる。その史跡めぐりウオークが、このほど伊賀市であり、伊賀上野城、比自山城跡周辺(同市長田)など全長8キロを歩いた。この戦いは、名張の柏原城で伊賀衆の降伏で終わりを告げるが、信長の非道ぶりに住民のやりきれない思いを伝える伝承が今も赤目地区に残っている。そのことに驚いた。
平楽寺
伊賀鉄道上野市駅前に集合する。参加者は50人、大部隊である。ガイドは県の文化財保護指導委員の寺岡光三(てるお)さん(64)。伊賀地方の中世城館に詳しいという。
まず行ったのは歩いて10分の伊賀上野城公園。坂道を登ったところで、ここにかつて平楽寺があった、と寺岡さんが教えてくれる。道の反対側には芭蕉翁記念館がある。平楽寺は「第2次天正伊賀の乱」(1581年)で伊賀衆は籠城(ろうじょう)して織田軍に抵抗したが、兵火により焼失した。このとき、700人余りの僧が斬首されたとも伝わる。なるほど小さな祠(ほこら)があり、花が供えられている。周りには五輪塔が何基も。「おそらく供養塔でしょう、公園内にはまだ点在していますよ」と寺岡さん。これまで何度か公園は訪れたが、こんな供養塔があるとは全く気が付かなかった。
供養塔前を左にとると、そこに一部石垣が残っている。その前に説明板がある。寺岡さんによれば、その石垣の内側に平楽寺で使われていた石が埋め込まれているという。かつて行われた発掘調査で分かったのだ。石の転用は今でいえばリサイクル。重機もない昔では当たり前だったに違いない。伊賀上野城前を横切り、広い高台に出る。ここからの眺めは素晴らしい。昔の武将もどこからでも眺められるこの場所が最適と考えたに違いない。だから平楽寺の後、支配者が代わってもこの地に城を構え、最後は藤堂高虎までいくのだ。
・・・・続きは2月3日号の伊和新聞で掲載しています。
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