▼ひと【NO.1】
名張の美を撮りたい・符阪晃さん

■いつもカメラは必携
 名張の写真クラブの老舗ともいえる「写友会」で活躍している符阪晃さん(78、桔梗が丘2)は、近鉄に勤める父の元、潤沢な子ども時代を大阪で過ごした。戦争勃発、中学生で配給の米が、麦やじゃがいもになり…戦争末期には「栄養失調で走ることもできなくなった」と言う。
 英語を学習したいと大阪外語瀬門学校(現在の大阪外語大学)の英米科に通ったが、学生動員で工場に。作業に出掛けている間に、学校は図書室を残して燃えてしまった。そして、終戦。友達と学校の様子を見に行った時、来ていた米国人に英語で尋ねられ、返事が返せた人だけが、米軍キャンプに連行。

 食事が与えられ、色いろなことを聞かれた。「米軍の人たちは、日本について知りたかったんです。世間で言われている米軍のイメージと違うな」と思った。「ボリュームたっぷりな肉中心の食事と珍しいコーヒーで満腹に。その日は、興奮して朝まで眠れなかった」と振り返る。サンドイッチの土産をもらい初めて親孝行ができたと。
 「彼らはシェークスピアの話をする面白い日本人だと思ったようでした。また、尊敬もしてもらいました」。そんな生活が半年ほど続いた。
 その時に磨いた英語力を生かし、近鉄のRTO(進駐軍事務所)で仕事を。「進駐軍が行ってしまうまでのわずかな間でしたが、父親の5倍ぐらいの給料をもらいました」。その後、途中になっていた学校に戻り、卒業。再び近鉄に就職した。
 「でも、仕事は地方ばかりで、近鉄の中の要(かなめ)になる仕事にはつけませんでした。まあ、出世しなかったってことですね」と笑う。九州の別符ロープウエーに勤務の時に霧氷や夜景などの写真を掲載したパンフレットを作った。その写真がJTBの雑誌「旅」に掲載された。「写真家と呼ばれる人も少なかったので、何でも自分たちでやりました」。事務所は暗室として使っているような状態だった。
 定年間際、近鉄沿線の文化財を扱う部署に配属。写真の腕を生かして、電車の中刷りやポスター写真も。私生活は、「やっとゆとりも出てきて、いいカメラを買えるようになった」と、職業カメラマンの使うような本格的なカメラを披露。定年後、依頼を受け、「奈良県史 第8巻建築、櫻井敏雄、名著出版社」の外形写真を撮影、そのほとんど符阪さんのもの。趣味の海外旅行でも、カメラは必携。
 「機材の重さがこたえるようになってきて、名張の中に目を向けるようになりました。これからは、名張の中の美しいものを撮るつもりです」。
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